― 自治体職員の現場から感じる違和感 ―
正直に言うと、最近の職場での「勤務中の喫煙」をめぐる議論には、どこか息苦しさを感じている。
何回までならいいのか、何分以内か、誰がチェックするのか。
そこまで細かく言わないと、仕事は成り立たないものだっただろうか。
この「そこまで言う?」という感覚は、怠けたいからでも、ルールを守りたくないからでもない。
むしろ、人を人として扱ってほしいという、ごく自然な違和感だと思う。
少し前まで、職場にはもう少し余白があった。
一服して気持ちを切り替える人がいても、「まあ、そんな日もあるよね」で済んでいた。
仕事は人がするものだから、集中が切れることもあれば、立て直す時間が必要なこともある。
そのことを、私たちは感覚的に分かっていたはずだ。
それがなぜ、ここまで細かく言われるようになったのか。
背景には、現場の余裕のなさがある。
人は増えないのに業務は増え、窓口や電話は止められない。
誰かが席を外すと、別の誰かがその分を引き受ける構造が常態化している。
その中で、「喫煙だけが自由に見える瞬間」が、不公平感として積み重なってきた。
さらに自治体の職場では、住民の目という現実がある。
「勤務中に何をしているのか」「税金で給料を払っているのではないか」。
こうした視線が強まる中で、管理する側も、
「暗黙の了解」で済ませることに不安を抱くようになった。
その結果、細かく決め、細かく管理する方向に振れていく。
ここまでは、頭では理解できる。
それでも、やはり引っかかる。
回数や分数を詰め、喫煙者だけが目立つ形で扱われ、
「見られている」「疑われている」空気が職場に広がっていく。
そのとき失われているのは、喫煙時間そのものよりも、信頼なのではないかと思う。
人は、監視されていると感じた瞬間から、仕事が「作業」になる。
ミスをしないこと、怒られないことが最優先になり、
本来向き合うべき仕事の中身から、少しずつ心が離れていく。
ここで大事なのは、喫煙が良いか悪いか、ではない。
問題の本質は、
勤務時間中の私的な行為を、職場としてどう整理してきたか、
そして、どこまでを個人の裁量に委ね、どこからを組織として管理するのか、
その線引きを、長い間曖昧にしてきたことにある。
喫煙だけではない。
私用のスマホ、短い雑談、席を外して頭を冷やす時間。
働く現場には、そうした「完全には切り分けられない行為」が必ずある。
それをすべて排除しようとすれば、職場は確実に壊れる。
だから本来必要なのは、取り締まりではなく整理だと思う。
原則として、勤務時間中は職務が優先される。
一方で、短時間の息抜きが、人を支えている現実もある。
業務に支障が出ないこと。
特定の人に負担が偏らないこと。
この条件が守られているなら、過剰に細かく言う必要はないはずだ。
「細かく言うこと」自体が目的になったとき、職場はおかしくなる。
しかし、「何も言わないことで不公平が広がる」なら、整理は必要になる。
今、多くの人が感じている違和感は、この二つの間で揺れている感覚だと思う。
その違和感は、甘えでも、時代遅れでもない。
人を管理対象としてではなく、一緒に働く存在として見ようとする感覚だ。
だからこそ、「ルールだから」「決まりだから」で片づけてしまうのは、もったいない。
喫煙をめぐる議論は、単なる嗜好の話ではない。
人が壊れず、職場が回り続けるために、
どこまで管理し、どこに余白を残すのか。
私たちは今、その問いを突きつけられている。
「そこまで言う?」という違和感は、
その問いを見失わないための、大切なサインなのだと思う。
※追記(誤解を避けるために)
誤解のないように付け加えておきたい。
ここで書いているのは、勤務中の喫煙を正当化したり、特別扱いを求めるものではない。
公務の現場において、職務専念義務や服務規律が重要であることは、言うまでもない。
私が違和感として書いているのは、
「喫煙そのもの」ではなく、
管理が目的化し、人を信頼しない形で運用されてしまうことへの懸念だ。
ルールが必要な場面があることも理解している。
ただ同時に、現場で働く職員が、不必要に疑われ、萎縮し、
声を上げにくくなっていくことが、
組織にとって本当にプラスなのかは、立ち止まって考える必要があると思っている。
この文章は、喫煙を守るためではなく、
現場で働く職員が、安心して仕事に向き合える環境を守るための問題提起である。

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