― コミュニケーションの“筋力”が弱っている
ハラスメント研修のあと、こんな言葉を投げかけられることがある。
「そんなこと言われたら、もう何も喋れませんよ」
「相手がハラスメントだと感じたら、ハラスメントなんでしょう?」
冗談ではなく、本気の声だ。
しかも言っているのは、乱暴な人でも無神経な人でもない。むしろ、慎重で、責任感の強い人たちである。
研修で示された数々の事例や注意点を前に、彼らは理解しようとしている。
だからこそ、「どこまでが大丈夫なのか」「何を言えばアウトなのか」が分からなくなり、最終的に行き着く結論が、何も言わないことが一番安全という判断なのだ。
ここにあるのは、ハラスメントを軽く見ている態度ではない。
また、言論の自由を振りかざす反発でもない。
むしろ、相手を傷つけたくない、問題を起こしたくないという思いが、言葉を止めてしまっている。
現在の職場では、言葉の可動域が極端に狭い。
少し踏み込めば行き過ぎと受け取られ、発言の意図より言葉尻が問題にされ、文脈よりルールが優先される。こうした環境では、対話は関係を築く行為ではなく、管理すべきリスクになりやすい。この状態で「もっと自由に意見を言おう」と言われても、それは現場にとって精神論に近い。
特に管理職や議員の立場にある人ほど、この矛盾を日常的に抱えている。
説明すれば「余計なことを言うな」と言われ、説明しなければ「説明不足」と責められる。丁寧さは評価されにくく、結果として無難な沈黙だけが選択肢として残る。発言は減り、会議は静かになり、「問題が起きていないこと」だけが成果のように扱われていく。
ハラスメント研修が、この空気を補強している側面も否定できない。
多くの研修は「やってはいけない表現」を丁寧に教える一方で、「どう言えば伝わるか」「誤解が生じたときにどう修正するか」には踏み込まない。その結果、現場に残るのは配慮ではなく、考えずに避けるためのマニュアルだ。
ここで起きているのは、コミュニケーション不全というより、思考停止に近い。
発言の是非を自分で考えるより、「安全そうかどうか」で判断する。
意味を考えるより、前例に従う。
そうしておく方が無難で、責任も負わずに済むからだ。
だが、沈黙が続く職場は健全とは言いがたい。
誰も傷つけない代わりに、誰も問いを立てない。
誰も踏み込まない代わりに、誰も改善しない。
思考を止めた状態を配慮と呼び始めたとき、組織は静かに硬直していく。
本来、ハラスメント対策の目的は、言葉を減らすことではない。
説明できること、確認できること、修正できること。
考えながら話すことが許容される関係を保つことにあるはずだ。
そこを省いたままでは、「喋れない職場」は増えても、「考える職場」にはならない。
「何も喋れなくなった」という声は、個人の問題として片づけられるものではない。
むしろ、言葉を使うことと考えることが同時に難しくなっている現状が、そのまま組織の状態を表している。

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