元従業員によるインターネット上の投稿が名誉毀損に当たるかどうか

温かな光を背景に、腕組をして微笑む白石社会保険労務士

以下は 「ICT・イノベーター事件」(正式名称:ICT・イノベーター事件/東京地裁令和7年1月15日判決) についての整理です。

これは 元従業員によるインターネット上の投稿が名誉毀損に当たるかどうか を争った労働法・不法行為判例であり、近時の企業法務・SNS投稿法理の観点から注目されています。 

1. 事案の概要(Facts)

企業と投稿者の関係

• 原告は 人材派遣業及びITソリューション事業を営む会社(X社)。

• 被告 Y は令和元年8月1日に X社と雇用契約を結び、 社員として勤務。

• 令和2年8月31日に退職。 

争いの発端

• Y は、 退職後に転職サイト等のインターネット掲示板に2件の記事を投稿。

• 投稿内容は、勤務中に受けたとする パワハラに関する具体的な経験・批判 や、それに基づく精神的苦痛の主張など。

• X社はこれを問題視し、 不法行為(名誉毀損)を根拠に損害賠償の支払及び投稿の削除を求めて提訴。 

投稿内容の特徴

• パワハラを経験したとする具体例や表現が含まれていた。

• 例えば「精神的な治療が長期間必要になる可能性がある」といった記述。

• 元従業員はこれを 単なる意見表明である と主張。 

2. 争点(Legal Issues)

本件裁判での主要な争点は次の通りです:

1. 投稿が事実か真実か(真実性の有無)

• 投稿内容に具体性はあるものの、それが客観的な根拠に基づいた「真実」かどうか。

2. 意見表明として法律上保護されるか

• 単なる個人的意見の表明として不法行為に当たらないか。

3. 名誉毀損の有無

• 投稿によって会社の社会的評価が低下し、違法性が認められるか。

4. 投稿削除の可否

• 削除請求が認められるべきか。 

3. 東京地裁の判断(Judgment)

東京地方裁判所は以下のように判断しました:

(1)真実性の判断

• 投稿に含まれる内容は 具体的で詳細だが、真実性の立証が十分ではない と評価。

• 元従業員側が真実の立証を果たしていないと判断された。 

(2)意見表明の限界

• 表現が単なる個人的意見にとどまらず、 具体的事実のように記述されていた点を重視。

• 単なる主観的意見として保護される範囲を超えていると評価された。 

(3)名誉毀損の成立

• 投稿が X社の社会的評価を低下させるものであり、 名誉毀損が成立。

• そのため損害賠償請求及び投稿削除請求を認容。 

4. 判例評価・評釈(Case Commentary)

ICT・イノベーター事件の意義は以下の点で評価されています:

① インターネット投稿の法的評価

• インターネット掲示板や転職サイトにおける 口コミ・批判投稿がどこまで法的に保護されるか の基準を示した点が重要。

• 投稿の具体性・真実性の有無、そしてそれが会社の名誉とどのように関係するかを慎重に判断している点が評価されます。 

② 「意見表明」と「事実表示」の区別

• 法制度上、 意見は保護されるが事実誤認の誇張表現等は保護されない との判断が再確認された格好です。

• これは SNS時代の名誉毀損法理として重要な判例評釈対象となっています。 

③ 真実性立証の負担

• 投稿者側が名誉毀損の「真実性」を証明する負担が大きいことも明確化。

• 特に具体的な被害や診療所記録等の裏付けがない投稿は真実性で評価されにくいという点が示されました。 

④ 労働関係投稿の限界

• 労働者がパワハラ等を受けたと主張して投稿する場合でも、 真実性の立証なく具体的に書くと名誉毀損になる可能性が高い という警鐘が裁判例として示されたことは、今後の企業・労働関係法務において中心的な論点となるでしょう。

① 企業側(X社)の主張

X社が裁判で言っていたことを要約すると、こうです。

「これは意見ではなく、虚偽の事実を書いた名誉毀損だ」

① 投稿は「事実の断定的表現」である

X社は、投稿が単なる感想ではなく、

• パワハラがあった

• 精神的に重大な被害を受けた

• 会社の対応が不適切だった

という 「事実があったかのような書き方」 になっている、と主張しました。

つまり、

「読み手は“この会社は違法なパワハラ企業だ”と受け取る」

という点を問題視したのです。

② その事実は真実ではない

X社は、

• パワハラの客観的証拠はない

• 社内調査でも確認されていない

• 医師の診断書なども十分ではない

として、

「書かれている内容は事実ではない」

と主張しました。

③ 会社の社会的評価が下がった

転職サイトへの投稿により、

• 求職者が応募しなくなる

• 企業イメージが損なわれる

• 営業活動にも悪影響が出る

つまり、

「営業妨害に等しい名誉毀損だ」

と訴えたわけです。

④ だから削除と損害賠償を求める

X社は、

• 投稿の削除

• 金銭的賠償

を請求しました。

② 投稿者側(元従業員Y)の主張

Yの主張は真逆です。

「これは私の体験に基づく意見・告発だ」

という立場でした。

① 実際にパワハラを受けた

Yは、

• 上司の言動により精神的苦痛を受けた

• その結果、メンタルの不調が生じた

として、

「これは作り話ではなく、自分が本当に体験したことだ」

と主張しました。

② これは「意見・感想」であり、表現の自由だ

Yは、投稿は

• 自分の感じたこと

• 働いてみての評価

• 被害を訴える告発

であって、

「会社を中傷する目的ではない」

としました。

つまり、

「口コミや体験談を書く自由がある」

という主張です。

③ 公益性がある

Yはさらに、

• 同じ被害者を出さないため

• 求職者に注意喚起するため

という意味で、

「社会的に意味のある告発だ」

とも主張しました。

③ この事件の本当の対立軸

この事件は、実は

「会社を守る名誉」 vs 「労働者の告発と言論の自由」

の衝突です。

「今回は投稿者が“事実であること”を証明できなかった」

として企業側を勝たせました。

この事件がいちばん重いのは、

「誰が声を上げられるのか」という問題を突きつけた点です。

ICT・イノベーター事件は、単なる名誉毀損事件ではなく、

「弱い立場の労働者が、不正やハラスメントを社会に伝えられるのか」

という、今の日本社会の根幹に触れています。

① ハラスメント告発が“リスク”になる社会

この判決が示したメッセージはこうです。

「証拠がなければ、ネットで書くと負ける」

多くのハラスメント被害は、

• 密室で起こる

• 証人がいない

• 証拠が残らない

• 診断書もすぐには取れない

という性質を持っています。

それにもかかわらず、この判決は

「証明できなければ名誉毀損」

という構図を作りました。

つまり、被害者は

沈黙するか、訴えられるリスクを取るか

の二択を迫られるのです。

② 口コミ社会と「口を閉ざす圧力」

転職サイトや口コミサイトは、本来

• ブラック企業を避ける

• 求職者を守る

• 企業の自浄作用を促す

ためのものです。

しかしこの判決は、

「ネガティブな体験を書くと訴えられる」

という前例を作りました。

結果として、

• 被害者ほど書けない

• 問題のある会社ほど守られる

という逆転が起きかねません。

③ 大企業・資本を持つ側が圧倒的に有利

企業は

• 弁護士を雇える

• 調査書類を出せる

• 訴訟を長期化できる

一方、元社員は

• 失業や転職の不安

• 費用負担

• 心理的圧迫

を背負っています。

この事件は、

④ 日本の内部告発制度の弱さ

欧米では、

• 公益通報(ホイッスルブロー)

• 労働者保護

• 報復禁止

が法的に強く守られています。

日本では形式上制度はあっても、

実際に守られない

という現実が、この事件に映っています。

⑤ この判決が社会に与える本当の影響

一番怖いのはここです。

「嫌な職場のことは、黙って辞めろ」

というメッセージが、出てしまったのではないかということ。

それは、

• パワハラ

• モラハラ

• 違法な労務管理

を見えなくする力になります

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