世論の熱が同調圧力になるとき
本作『踊り疲れて』は、2024年に『週刊文春』で連載され、同年8月まで掲載されていた作品である。今改めて読んでみると、連載当時の社会の空気が、驚くほど生々しく立ち上がってくる。
その頃は、著名人の発言や組織の不祥事、ハラスメントをめぐる告発などが相次ぎ、社会的な関心が次々と移ろっていた。発言の一部が切り取られて拡散され、日々のニュースやSNS上では、個々人に何らかの「態度表明」が半ば求められるような空気が広がっていた。沈黙すること自体が、誤解を招きかねない雰囲気だった。具体的な事件名を挙げなくとも、あの頃の張りつめた感覚を思い出す人は少なくないだろう。
そうした背景の中で提示される
〈社会的事件をきっかけに世論の熱狂が高まり、人々は「正しい側」に立つことで連帯感を得るが、その熱はやがて同調圧力へと変わっていく〉
というあらすじは、単なる物語の設定ではなく、当時の現実そのものを切り取ったように感じられる。声を上げること自体は、本来、社会を前に進める力になり得る。問題を可視化し、沈黙を強いられてきた立場に光を当てるという意味で、重要な役割を果たしてきたのも事実だ。
しかし、その声が数と勢いを伴った瞬間、状況は少しずつ変質していく。慎重な意見や異なる視点は、「今それを言うべきではない」「空気を読んでいない」として排除されやすくなる。正しさを共有することで生まれたはずの連帯は、いつの間にか足並みをそろえること自体を目的化し、疑問を差し挟む余地を狭めていく。
SNSでは、その変化がより急激に、そして分かりやすく表れる。怒りや断罪は即時に拡散され、共感や賛同の数が可視化される一方で、複雑な背景や当事者の文脈は、置き去りにされがちになる。連載が続いていた当時も、毎週のように「次の炎上」「次の糾弾」が現れ、社会問題が消費されていくスピードの速さに、私自身、息苦しさを覚えることがあった。
本作が描いているのは、誰かを糾弾するための悪意ではない。むしろ、善意や正義感が、世論や制度の圧力と結びついたときに生じる、集団的な暴力性そのものだと、今読み返してみて改めて感じる。自分は正しい側にいる、間違っていない――その安心感が、人を無自覚な加害者に変えてしまう。その構造は、連載当時だけのものではなく、今も形を変えて続いている。
「踊り疲れて」という言葉が象徴するのは、そうした熱狂のあとに残る虚脱感だ。社会問題を追い、感情を動員し、正義を消費し、やがて次の話題へ移っていく。その循環の中で、私たちは本当に何かを変えられているのだろうか。踊り続けることに疲れ、輪から外れた瞬間に、立場が一変する怖さを、私は当時も、そして今も感じている。
正しさを主張する前に、立ち止まり、問い直す余白を持てるか。今、自分がどのリズムに乗り、どこへ向かって踊っているのかを考えられるか。その姿勢こそが、今いちばん問われているのではないかと思う。
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